――匝瑳さんが翻訳に出会ったのは、どんなことがきっかけですか。
「米国在住の知人が東京にいる私に、ビジネス関係の翻訳を一緒にやらないかと誘っ
てくれたのがきっかけです。その頃はまだ景気もよく、仕事もいろいろありました。
ジョージ・ルーカスの仕事をしたこともありましたよ。その知人は、打ち合わせとい
うことでルーカスの広大な牧場に招待され、ランチをご馳走になったそうです。東京
にいた私は、ちょっと羨ましかったですね」
――その後もそのお仕事が順調にいったわけではないのですね。
「はい。不況とともに仕事も減って、最後には無期休業という残念な結果になりまし
た。でもこの仕事のおかげで、もともと“ことば”に強く惹かれていた自分を思い出
したんですね。中学、高校と谷川俊太郎や八木重吉の詩が大好きでした。私の思う
“ことばの魅力”とは、たとえば“たった一言で人を殺せるほどの力を持っている”
ところでしょうか。それで本格的に勉強してみたくなり、翻訳学校に通い始めました。
実は今でも通っていますが、ことばというのは関われば関わるほど奥深いものだと実
感しています。先生に教えていただきながら、とにかく書いてみる、訳してみること
の大切さがよくわかりました」
――『ハンニバル』の戦慄と『24人のビリー・ミリガン』の迫力をあわせもつサイコ
・サスペンス、と評判の高い『監禁治療』を訳されていかがでしたか。
「この物語の中心人物は、解離性同一性障害(多重人格)の連続殺人犯マックスです。
彼を追うFBI捜査官と、彼に誘拐されセラピーを施すことになる精神科医との絡み
の中で、マックスの半生が明らかになっていきます。その過程が本書の読みどころで
すが、著者が実際にこの障害を持つ人たちの手記に触発されたといっているだけあっ
て、かなりリアルな描写が続きます。私も何度となく心をえぐられる思いをしました。
難しかったのはマックスの9つの人格をどう訳し分けるかということです。思いっき
り感情移入しながらも、それをあまり前面に出さないよう意識しました。また精神医
学用語が頻出するので、訳注を入れることで読者の皆さんの気をそいでしまわないか
とかなり心配しました」
――今後のご予定は?
「3月下旬か4月上旬に『死海文書の謎を解く』(ロバート・フェザー/講談社)が
出る予定です。50年前に死海のほとりで発見されたいわゆる『死海文書』の中に、
「銅の巻物」という、宝物のリストではないかといわれている一風変わった巻物があ
ります。本書は英国の冶金学者がその「銅の巻物」の謎に迫り、ユダヤ教とエジプト
の関係を明らかにしていく歴史ノンフィクションです。正統派の研究書ではありませ
んが、古代史ならではの“想像力を働かせる愉しみ”を満喫させてくれます。古代史
は完全に解明されていないぶん夢とロマンがいっぱい詰まっている、まさしくミステ
リーの世界ですね。興味が尽きません。本書の翻訳にはおととしから丸2年かけて取
り組んできました。著者とも何度もメールでやり取りをしましたし、訳者としてとて
も思い入れのある本です。今は調べものに愉しみを見出しているのでノンフィクショ
ン好きに拍車がかかっていますが、『監禁治療』でフィクション翻訳のおもしろさを
体験させていただいたので、少しずつ守備範囲を広げていけたらなと思っています」