
子どもの本だより No.79
2006.10.2
| 大自然との共生、そして、キリスト教の篤い信仰。大人になって読み返してみれば、なるほどそうであったのか、と思えます。この物語と出合って、スイスへの憧れを強くした方もいらっしゃるのではないでしょうか? 私も、そんな一人であり、舞台となったマイエンフェルトを訪れたことさえあります。 さて、今回ご紹介した翻訳は、現在出版されていないものとなってしまいましたが、原作に忠実で、甘ったるくなく、何より、私が長く親しんだ本ですので、敢えて取り上げさせて頂きました。興味のある方は、古本屋で探してみてください。 (吉田真澄) |
『ハイジ』上下
ヨハンナ・スピリ作
竹山道雄訳
岩波少年文庫
| 物語の最初、デーテ叔母さんに無理やり手を引かれて、アルプスの険しい山を登っていくハイジは五つになったばかり。「すっかり日に焼けて、とび色になった肌をとおして、血の色が、火のように赤くかがやいて」いる女の子です。連れて行かれたアルムの山小屋には、気難しいと評判の年老いたおじいさんが二匹のヤギと共に暮らしています。始まったおじいさんとの二人きりの暮らしは、しかし、毎日が新しい驚きと感動に満ちていて、無垢な幼子ハイジの胸の高鳴りは、休まる暇もないほどでした――。 おじいさんの手によって魔法のように生み出されるテーブルや椅子。搾りたてのヤギの乳は、鉢いっぱいに白く泡立ち、まるいパンの上には黄金色にとろけたチーズがのせられています。古い山小屋の裏には背の高い樅の木が三本立っていて、ふりそそぐ陽の光の中でさわさわと揺れ、ハイジの心を沸き立たせます。ハイジは、風が樅の枝を鳴らすこの音を、何より愛していたのです。夕方には、山の向こうに沈む太陽が、峰々を真っ赤に染め上げます。ハイジはこの光景を初めて見たとき、そばにいたヤギ飼いの少年ペーターに向かってこう叫ぶのです――「ペーター、ペーター、お山がみな燃えてるわ。」 そして、暖かい晴れた日には、ペーターと一緒にたくさんのヤギに囲まれて、山頂の牧場で一日を過ごします。 たとえばこんなふうに……。 ハイジは、声もたてずに、あたりを見まわしました。 まわりは、大きくふかく、しずまりかえっていました。 ただ、かすかに風が、やさしい青いつりがね草と、金 色に光っているシストの木の上を吹いておるだけでし た。 ――中略―― ハイジは、いままでに、これほど気もちがよかったこと はありませんでした。そして、金色の日光と、すがすが しい大気と、やさしい花のにおいとを、なみなみとのみ こみ、いつまでもここにいたいということだけしか考え ませんでした。このほかには、願うことはありませんで した。 再びデーテ叔母さんによってフランクフルトへおくられるまでの三年間、こうしてハイジの幸福な日々は続いていきます。ペーターの盲たおばあさんは、ハイジに出会えたことで、その暗くてさびしい生活を一変させることができたのですが、気難しいおじいさんにしても、粗野な少年ペーターにしても、ハイジの存在そのものが、彼らのかけがえのない喜びとなって、その生活を支えていることにはかわりありません。ハイジが驚喜するアルプスの大自然と同じくらいの恵みが、ハイジによって、そこで暮らす人々にもたらされているのです。 しかし、その語り方には、ハイジの愛らしさを読者に知らしめようとする小賢しさは感じられません。むしろ、朴訥でありすぎるほどにけれんみがなく、そのため、かえって私たちは、どうしようもなくハイジの一挙手一投足に魅せられていきます。そして、この幼い少女の笑顔がいつまでも絶えることのありませんように、といつしか願ってしまうのです。 大都会フランクフルトに舞台が移ってからも、天真爛漫なハイジの振る舞いにかわりはありません。車椅子での生活をおくる病弱な少女クララや、その父ゼーゼマン氏、ハイジに祈ることの大切さと文字を読む楽しさを教えてくれたおばあさま、下男のセバスチャン――何かとハイジに辛く当たる家政婦ロッテンマイアさんを除いては――時に騒動を引き起こすハイジを、彼らはあたたかく歓迎します。しかし、ハイジは、本人もそれと知らぬ間に、夢遊病にかかってしまうほどアルムの山を恋しく想うようになっていました。幼いハイジが、涙をこらえ、また、クララが悲しむことを慮って一心にその想いを封印するさまは、せつなく、胸が痛みます。しかし、全体にからりとした語り口のせいか、ひきずるような陰気さがないのは救いでした。その後、ハイジの病状を穏やかに気遣うお医者さまの出現によって、懐かしいアルムのおじいさんの元へとハイジは帰 っていくことができたのです。 この物語の大きな特色としては、その全体を貫いているのがキリスト教の信仰であるということです。アルムの山へ帰りたい、という切なる願いを懐きながら、それを誰にも打ち明けられず、一人きりで眠れぬ夜を過ごすハイジを、おばあさまは、こんなふうに諭します。 「いいかえ、ハイジ。おまえがそんなにかなしいのは、 たすけてくれる人がないからです。気になることがあっ て、苦しいときにはね、人はいつでも神さまのところへ ゆけばいいの。 そうすれば、何もかも申しあげて、人間では、とうて いたすけられないことも、おたすけねがうことができま す。これは、なんといういいことでしょう。それを、よ く考えてごらん。 神さまは、どんなときでもたすけてくださいます。わ たしたちを、またしあわせにしてくださることが、おで きになるのですよ。」 この場面は、ハイジが初めて信仰に触れる印象的な場面ですが、おばあさまの話にじっと耳を傾けていたハイジの目には、その瞬間、「うれしそうな光」がかがやきます。ハイジは、その日から、一日たりともお祈りを忘れることがなかったのです。そのハイジのひたむきでまっすぐな神を尊ぶ心は、やがて、真の救いと安らぎをおじさんにもたらします。何の信仰も持たない私ですが、フランクフルトから戻ってきたハイジが読み聞かせてくれた物語によって、おじいさんが、自身も忘れていた信仰心を取り戻す場面は、この長い物語の中で、ひときわ胸に迫りました。 ハイジは、もうぐっすりねむっていました。 ――中略―― ハイジは、両手をくんで寝ていました。お祈りを忘れな ったのです。その顔には、平和と、しあわせな信頼の表 情がうかんでいました。おじいさんは、心をうたれまし た。そして、長い長いあいだ、そこにたったまま、身う ごきもせずに、このねむっている子どもから、目をはな しませんでした。やがて、おじいさんもまた、手をあわ せました。そうして、かしらをたれて、つぶやきました。 「父よ、わたしは、神とあなたにたいして罪をおかしまし た。もはや、あなたのむすこという資格はございません」 いくつかの大きな涙が、おじいさんのほおにしたたりま した――。 更に、もう一つ、物語を支える大きな柱となっているのが、アルプスの雄大な自然とその恩恵です。クララが歩けるようになるエピソードは有名ですが、クララの主治医として付き添ってきたお医者さまの深い悲しみさえ、ゆるやかに癒えていき、彼は、この地で暮らしていくことを決意します。 全編を通して、波のようにうちよせる醇乎たる喜び。繰り返し繰り返し、その喜びは形を変えながら、一歩、また一歩、それぞれがあるべき幸福へと近づいていきます。そして、ハイジが持っている――そして、きっと幼い人たちなら誰しもが持っている――幸せになろうとする無意識の力は、周囲の身勝手な大人たちをも巻き込みながら、多くの人生を好転させていくのです。 作者ヨハンナ・スピリは、「幸運はだれに一ばん美しいしゅろの枝をさしのべるだろうか。喜んで事をなし、なした事を喜ぶ人に」というゲーテの言葉を愛していたといいますが、この人生観は、ハイジの中に万全と息づいています。長い物語中、許しがたいほどの悪人が登場することがないのも、“喜んで事をなし、なした事を喜べる”人を目指した、作者の前向きな楽観性に起因するのかもしれません。目の前にいる人を疑うことなく、常に前向きに、人生を真摯に生きるハイジ。その明るさを愛せない人はいないはずです。 最後は、ハイジのこのセリフでしめくくりたいと思います。信仰を持たない私でさえ、いくども勇気付けられた言葉です。 「待っていればいいのよ。 神さまは、ご承知になっていて、やがてしあわせをあた えてくださる――こう思っていればいいの。そうして、 すこしがまんをして、逃げ出さないようにしているの。 そうしていさえすれば、いつかは、なにもかも一ぺんに、 わたしたちにとっていちばんいいようになるわ」 |
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