|
この本は、マーガレット・マーヒーの三冊の短編集の中から、訳者の石井桃子さん自らがお気に入りを選んで一冊に編んだものだそうです。私は原書を目にしたことはありませんが、なるほど、石井さんのおっとりとしていて落ち着いた訳文が胸に沁みる、健やかな物語集になっています。
私は、この物語集を読むと、――ああやっぱり、私はファンタジーが好き!――という想いで、胸が高鳴るのを覚えます。パノラマではなく小景、スペクタクルな幻想ではなく、日常に潜む小さな魔法の数々を描くささやかな――だけど喜ばしい―ファンタジー集だからでしょうか。その恩恵を受けとることができるのは、一人きりでいる幼い人たちと決まっている安心感も手伝います。
たこを自分で作ることのできなかった不器用な女の子、ジェーンのもとへ届けられた魔法のお話(「たこあげの日」)、「葉っぱの魔法」は、燃えるように色づく秋の木立のざわめきを背景に、犬が欲しいと願う少年に訪れた奇跡を軽やかに語っています。「ミドリノハリ」や「鳥の子」のしっとりと肌に馴染むような不思議さ、「幽霊をさがす」の床しいとも感じられる恐怖。ノスタルジアを誘われるのは、むろん大人の読者に限ってにちがいありませんが、そんな私たちですら、一方で、その清新な筆致に驚かずにはいられないはずです。
表題にもなっている「魔法使いのチョコレート・ケーキ」では、穏やかな幸福感が語られます。魔法の腕が悪いばかりに、悪い魔法使いだという汚名を着せられた一人ぼっちの魔法使いは、りんごの木と二人だけ(?)でお茶を楽しむ日々が続きます。魔法使いは、お手製のケーキを町中の子どもたちにごちそうしようと招待状を出していたのですが、ついに、ただの一人もやっては来なかったのでした。得意の腕をふるったチョコレート・ケーキと紅茶は自分用に、肥料の粉で焼いた特製ケーキは「いちばん上等の」おぼんにのせてりんごの木のために。水をいっぱいに湛えた赤いじょうろも忘れません。魔法使いのこうした暮らしぶりは、侘び住まいではありながら、優雅で満ちたりたものにも感じます。センチメンタルに、その孤独さを訴えるわざとらしい表現もなく、ただ坦々と、あたりまえのように彼の日常は過ぎていくのです。りんごの木と共に日向ぼっこをしながら――。「もういっぱい、つぎますかな?」と、りんごの木に丁寧な口調でじょうろの水を勧める彼のもとへ、やがて、子どもたちが大勢訪れることになるのですが、それは、何年も何年も後のこと。一本だったりんごの木の隣に別の木が植えられ、またその隣にも木が植えられ、いつしか魔法使いは、「森のいい魔法使い」と呼ばれるようになっていたのでした。
木の葉は、さわさわと鳴り、子どもたちはうたいました。魔法使いは、大きなチョコレート・ケーキを大きく切りました。とうとう、パーティーがはじまったのです。木には、木の話し相手があり、人には、人の話し相手がありました。
また、木は、人の話し相手でもあり、人は木の話し相手にもなりました。
さびしいものは、ひとりもいませんでした。
しかも、だれのためにも、ケーキはたっぷりありました―笑っているものにも、葉っぱをつけているものにも。
語られていることが、まぎれもなくファンタジーであるとわかっていて尚、世界はいつだって善意に満ちているのだ、という安心感にほっこりと包まれてしまいます。「さびしいものは、ひとりもいませんでした」――それが、ファンタジーならではのエピローグであったとして、何の不都合があるでしょうか。そこには、僅かな媚もなく、ただ、信頼に値するだけのやさしさがあるのみです。
この本で紹介される八話の物語と二編の詩を通して、改めて、ファンタジーには垣根が無いのだと感じ、またそのことを何より幸福に思いました。作者自身が人間を深く愛し、だからこそ、その心の際限なき拡がりを、極上でささやかなファンタジーに仕立てることができたのだろう、と私は想像するのです。
|