
子どもの本だより No.49 2003.3.27

私とこの作家の出会いは、小学生の頃に母が買ってきてくれた『ひとりっ子エレンと親友』(ベバリイ・クリアリー作/松岡享子訳/学研)という一冊の本が最初でした。主人公の親友は転校生でバレエを習っている――当時の私との共通点を探し出し、内向的だった私を何とか励まそうと、母が見つけだしてくれた物語だったはずです。以来、この作家が描く多くの登場人物――「ヘンリーくん」も「ビーザス」も「いたずらっこオーチス」も――は、私にとって特別な存在になりました。
桜の季節、本によって勇気づけられた確かな記憶をたどって、ベバリイ・クリアリーの物語をご紹介致します。(この物語の前に『ラモーナとおとうさん』『ラモーナとおかあさん』『ラモーナ、八歳になる』(以上松岡享子訳/学研)の三冊が出版されています。あわせてお楽しみ下さい)
(吉田 真澄)
ラモーナとあたらしい家族
ベバリイ・クリアリー作 アラン・ティーグリーン絵 松岡享子訳 学研 本体1200円

“感じ易い”とか“繊細”だとか、そんな言葉を改めて意識するまでもなく、幼い時代は過ぎていきます。鋭い感受性が、時に苦悩の淵へと自らを追いこむ枷ともなるのだと、私たちが知ったのはいつの頃だったでしょうか。敏(さと)いアンテナは、相手の言動の中にある“悪意”を容赦なく感知し、それによって生じた不安が、自分の存在さえ憂慮させるのです。私は、痛いほどの既視感を覚えながら、この物語を読み進めました。一方で、この時代からちっとも老成していない自分をこそばゆくも感じつつ……。
物語は、ラモーナの親友ハーウィ(男の子)の家に、「お金持ち」のおじさんがやってくるところから始まります。くたびれたTシャツを着て不精ひげをはやしたおじさんは、しかし、全く「お金持ちそう」に見えないばかりか、ラモーナの一番嫌いなタイプの――子どもをからかう――大人だったのです。
自分を嫌っているケムプおばあちゃんに、面倒をみてもらわなければならない苛立ち。思春期を迎えた姉、ビーザスとの辛い仲違い。老猫ピッキィピッキィの死。そして、何やら隠しごとをしている両親。怒りや悲しみはラモーナを乱暴にします。そんな時、家族そろって話し合うのが、ラモーナ家のきまりです。そして――「家族みんなで自分を助けようとしてくれたことで、ラモーナの心の中にあった、きずついていたんでいた気持ちはいやされはじめていました。」
思わずふきだしてしまったのは、(十二歳以下の子どもは)伝染性の病気をもっているかもしれないからと、お母さんの病室に入れてもらえなかったラモーナの(釈然としない)心の内を綴った場面です。「看護婦さんは、ラモーナのことを小さいおじょうちゃんといい、おとうさんは、おねえさんなんだからといいました。いったいラモーナは、なんなんでしょう? バイキンのついた女の子なんです。」
ラモーナが三面鏡の前でくるくると躍りながら、「どこまで行ってもわたしだわ」とつぶやく場面では、泣きたくなるような慕わしさで胸がいっぱいになりました。鏡の中で小さくなる自分の全身を見つめながら、ラモーナのように、きっと自分は「どこまでも行ける」“行ってみせる”と確信していた瞬間が、私たちにもあったはずです。
「がんばれヘンリーくん」シリーズで「豆台風」と呼ばれた彼女ももう九歳。ハーウィの妹、ウィラジーンにかつての自分の姿を重ね、その気持ちを汲んでやれる優しい少女に成長しました。「へまはするけどりっぱだよ」と自分を称する健やかな強さだって、無論、彼女の専売特許です。
そして――。物語の最後は、こんな素敵な言葉でしめくくられます。「ラモーナは幸せでした。大きくなることを目ざして勝ち進んでいくのです。」何とも頼もしい限りではありませんか!
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